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アラステア・アーサー・ウィンザー(Alastair Arthur Windsor, 2nd Duke of Connaught and Strathearn, 1914年8月9日 メイフェア、ロンドン - 1943年4月26日 オタワ)は、イギリス王室の一員。ヴィクトリア女王の曾孫。誕生時の名前はアラステア・オブ・コノート・アンド・ストラサーン(Prince Alastair of Connaught and Strathearn)であったが、1917年にイギリス王族の身分を失い、以後は母方のファイフ公爵家の嗣子としてマクダフ伯爵(Earl of Macduff)の称号で呼ばれた。1942年、父方の祖父よりコノートおよびストラサーン公爵位を相続したが、その翌年に急死した。 コノート公爵家の嗣子アーサー王子と、第2代ファイフ公爵夫人のアレグザンドラ王女の間の一人息子として、両親の邸宅であるロンドン、メイフェアのマウント・ストリート54番地の邸宅(現在のブラジル大使館)で生まれた。父はヴィクトリア女王の孫息子、母はエドワード7世の女系の孫娘である。8月25日、洗礼式を行い、母方の大伯父ジョージ5世、スペイン国王アルフォンソ13世、母方の曽祖母アレクサンドラ王太后、父方の祖父コノートおよびストラサーン公爵アーサー王子、父方の大叔母アーガイル公爵夫人ルイーズ、従姉イギリス王女メアリーが代父母を務めた。 アラステアが生まれたときは第1次世界大戦が始まっており、国王ジョージ5世はイギリス国民の反独感情を考慮して王家の家名をサクス=コバーグ=ゴータ家からウィンザー家に改名し、王家の人々のもつドイツ由来の称号を全て放棄させた。これと並行して、ジョージ5世は1917年11月20日付の開封勅許状において、イギリス王子・王女の称号ならびに「王家の殿下(Royal Highness)」の敬称は、イギリス王の男系の孫、およびプリンス・オブ・ウェールズの嫡孫に限ることを定めた。アラステアは生まれながらにイギリス王子の称号と「Highness」の敬称を有していたが、この規定によりそれらの称号・敬称を失った。 アラステアはブライアンストン校およびサンドハースト王立陸軍士官学校で学び、1935年に陸軍第2竜騎兵連隊(現在のロイヤル・スコッツ・グレイズ)所属の少尉に任官した。同連隊はアラステアの父アーサー王子を隊長とする連隊で、1936年にはエジプトに駐屯した。1939年、アラステアはカナダ総督を務めるアスローン伯爵の副官に任じられ、オタワに移った。 1942年、アラステアは祖父コノート公爵アーサー王子が死ぬと、その爵位を継承した。しかし翌1943年、アラステアはオタワで死亡している。表向きは「任務中に死亡」とされたが、2006年に公表された国王ジョージ6世の個人秘書アラン・ラッセルズの日記によれば、所属連隊やアスローン伯爵から無能とされて煙たがられていたアラステアは、やけ酒に走ったうえ一晩中低体温症に苦しみ、窓から転落して死んだという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アラステア・ウィンザー (第2代コノート公爵)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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